中国での生活も3年目を迎えようとしていた。

変わらず必死の子育ては続いていた。

夫は赴任してからずっと忙しい日々が続いていたが、彼自身は仕事をとても楽しんでいるようだった。

出張も多く、私は心細い時間も多かった。

一番困ったのが、優大の昼夜の逆転が生まれたときからずっと続いていて、連日の徹夜も珍しくはなかったことだ。

眠っても自分で目を閉じられない優大のために眠ったら瞼を閉じ優しい素材のテープを貼る。

優大が起きていれば、仮眠をとることさえできない。

毎日の眠さと心の疲労が同時に私の元気を奪っていった。

その次に大変だったのが食事だった。

重い障がいのために、ほ乳力も完全ではなく、嚥下はもっと難しかった。

すぐにむせて喉や気管に残った食べ物でゴロゴロと痰が絡んでくる。

母乳から哺乳瓶のミルクに替えることの苦労も大きかったが、離乳食を始めるとそれは更に大変になった。

まず安全な食材が手に入らない。

新鮮な野菜を食べて人が死んだというニュースも聞いていた。野菜は流水や洗剤で洗うという。

大人はまだしも赤ちゃんには食べさせることができないと思った。

そうなると頼みの綱は、日本から船便で送ってもらうベビーフードだった。

ある日、船便でやっと到着した食料品の段ボールを空けてみると、ベビーフードの瓶が割れて悪臭が漂っているではないか。

よく見るとウジ虫がわいていた。

日本ならば、そのままゴミに出すようなその荷物から、私は必死で割れていない食べられるベビーフードを探した。

取り出して外に持っていって洗って、なんとかほんのいくつかの瓶を確保した。

食事時間も昼夜逆転の優大の起きている夜中も含めて、まるで一日中ご飯をあげているような毎日だった。

作っては二時間くらいかけてご飯を食べさせ、本人も疲れて途中で寝てしまう。

するともう次の食事の時間がやってくる。

食事は命綱と思うと、私は必死で食事を与える以外なかった。

日本では常識であった経管栄養の言葉さえ知らなかったのだ。

当時は夫に子育てを手伝ってもらうことはほとんどなかった。

彼も子どもはかわいいけれど、自分の仕事は外で働くこと、と当然思っていたと思う。

新生児の赤ちゃんを育てるような夜も昼もない、24時間つきっきりの育児が二年以上も続いた。

日々を重ねていくごとに私は体力がなくなっていき、自律神経のバランスも崩れていった。

突然汗が出たと思うと、次には悪寒がして気分が悪くなる。

胃はいつでも調子が悪く、しょっちゅう胃けいれんを起こす。

旅行や食事やショッピングでリフレッシュをしても、ほんの一瞬しか軽くならない身体と心。

すがる思いで夫に育児を手伝って欲しいと頼んだ。

「一日一回でいいから、大事な薬を飲ませるのをかわってくれない?」 と。

今でこそ子煩悩なパパへと変化した彼だが、当時はその願いさえ、面倒くさそうに渋々引き受ける感じだった。

私は手伝ってもらいたいというよりも、ただわかって欲しかった。

私がこの優大の育児にどれ程責任が重く感じていて、それに一人で耐えていたかを。

心の拠り所であるはずの夫にも、自分の苦しみは理解してもらっていない……そう感じずにはいられなかった。

それに加え、優大が成長するにつれて、友達と誰とも会うこともなく、専門の療育ができないことが不安となっていった。

障がいがあっても通えるという幼稚園を探してもらい、見学に行ってみたことがあった。

中国では珍しくニコニコと対応してもらえた。

施設の中には、ほとんど健常のお子さんと変わらないような少し発達に遅れのある感じの子ども達が座っていた。

職員の方が笑顔で言った。
「この椅子(普通の子ども椅子)に座れる様になったらいつでも来て下さい」と。

私はポカんとしてしまった。

首の据わることのない優大にはそんな日は来ない。

ということは、中国では通える所はないということだった。

私の孤独はさらに増した。

次第に積み重なった疲労はじわりじわりと心を浸食していった。

身体がだるくて外出する気力が起こらない。

昼間、家に優大といると、理由もなく涙がこぼれた。

人に会いたくない。

次第に鏡で自分の顔を見ることができなくなった。

優大が生まれてから、挫けそうになる度にいつも鏡を見て、笑った。

それはまだ自分が明日に希望を持てるという、おまじないのようなものだった。

でももう、鏡に映る自分の顔を見るのが怖かった。
笑えないことを確認するのが怖かった。。

これ以上ここにいたら、おかしくなると感じた私は夫に初めて伝えた。

「もう無理だと思う・・。」

その言葉を聴いた夫の表情は緊迫していた。

私が限界を迎えていることに初めて心底気付いたようだった。

こうして私と優大は3年間暮らした中国を後にして、夫より先に帰国することになったのだった。

途中、水頭症が進行して緊急帰国して、シャント手術をうけることになったり、肺炎で中国の病院に入院したり、いろいろな困難を乗り越え優大は3歳になった。

優大を産んだことにさえ理解を示さなかった主治医も最後には、
「優大はすごい!この子は笑ったり意思表示もできるんだよ~!」と皆に自慢げに話したりした。

初めての子育ては中国で始まり、様々な困難に出会いながら優大を育てることに必死だった。

それは戦いの日々だったかというと、そうは思わない。

その時の精一杯をつくし、夫と優大と歩んだ、大切な愛に溢れた毎日であった。

とにもかくにも、次は九州でのまた新しい日々が待っている。

 

 

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優大とわたしたちの10年間の物語 目次

About Stories 「物語の前に」

Story1
妻編:「赤ちゃんにノウガナイ?」
夫編:「幸せな若夫婦への突然の報せ」

Story2
妻編:「悲しみと隣りあわせの幸せ」
夫編:「試練、負けるもんか」

Story3
妻編:「この腕に抱きたい」誕生へ
夫編:「産むのはおかしいことですか?」

Story4
妻編:「天からの贈り物」
夫編:「想像できなかった現実」

Story5
妻編:「発作との日々の始まり」
夫編:「いざ広州へ」

Story6
妻編:「中国で重度障がい児を育てる」
夫編:「いよいよ!家族揃っての駐在生活。。」

Story7
妻編:「必死だった日々も。。」
夫編:「妻任せの障がい児子育て」

Story8
妻編:「これでいい。だいじょうぶ。」
夫編:「なかよし学級で教えてもらったこと」

Story9
妻編:「失うことの恐怖。。希望へ」
夫編:「生後5年目、初めての介護育児」

Story 10
妻編:「優大チームの介護子育て」
夫編:「優大5歳、お兄ちゃんになる」

Story 11
妻編:「生きていることの奇跡」
夫編:「8歳の試練」

Story 12
妻編:「当たり前でない日々、10年」
夫編:「命は必ず尽きる、ライフワークは何か?」

Story 13
妻編:「命の最期のしごと 前編」
夫編:「そして、九州へ」

Story 14
妻編:「命の最期のしごと 後編」
夫編:「命日と誕生日、優大の旅立ち」

Story 15
妻編:「すべてが贈り物」
夫編:「3人家族、新しい生活」

Last story
妻編:「生きて!」ママへ、そしてかけがえのないあなたへのメッセージ
夫編:「4人で5人家族、優大学校からの学び」