私は出産を控えて九州の実家に戻った。

私の実家は市街地から離れた住宅地にあり、家の前には川が流れている。

家の裏庭から続く見慣れた川の景色を眺めながら、ついに出産が近付いてきたことを感じていた。

お腹は日に日に大きくなり、赤ちゃんの成長はゆっくりではあったが、胎動もあり、かけがえのない我が子としてここにいる。

どんなに重い障がいがあろうとも、どれだけ短い命であろうとも、ただこの子を腕に抱きたい。

その気持ちだけが私を支えてくれた。

出産をする大学病院は、地元では一番大きく、小児科にNICUのような施設もあった。

病院選びに迷いはなかった。

けれど、初めて受診したその日から、出産の日まで、大学病院の産婦人科の医師たちとのやり取りのなかで、私はとても苦しむこととなった。

まず何よりも、診察室での全ての話しの中で、お腹の赤ちゃんのことは小さい命でもなく、まだ命でさえない「胎児」という扱いであることにとても違和感を覚えた。

医師は私にこう告げた。

「胎児が水無脳症という障がいを持っています。

大脳が欠損してから頭囲の成長が止まり、頭がとても小さいので、自然分娩をすると頭だけが先に出てきて身体が出て来れない可能性があります。

その場合、胎児の身体を無理矢理、産道から出すので、肋骨をはじめ身体の骨を骨折するかもしれません。

生きて無事に生まれて来れないことも考えられます。

その可能性を考えても、私は普通分娩を勧めます。

何故なら帝王切開には妊婦にかかる様々なリスクがあるから
です。」

この淡々とした説明を聞きながら、私はなんとも言えない、いたたまれない気持ちになった。

お腹の赤ちゃんはもう大切な私の子どもなのに、命としては扱ってはもらえないの?

骨折の痛みさえ、考慮してはもらえない?

命には重さの違いがあるというの?

帝王切開でお母さんのお腹を切ってまで、生む価値のない胎児。。

そう言われていることが、はっきりとわかった。

そこでは、医学の常識に、心の入る隙間がないかのようだった。

それでも私は、どうしても帝王切開で産みたいことを伝えた。

それ以外にはとても考えられないのに、検診の度に同じことを繰り返し言われるうち、自分の決断という、重い責任に押し潰されそうになってくる。

本当にこれでいいのか?

これは誰にも肯定してもらえない決断なのだろうか?

そんな苦しい思いでいっぱいになっていった。

次第に眠れなくなり、いつも動悸がして胸が苦しい、手に嫌な汗をかき、どうにかなってしまいそうな気持ちになる。

赤ちゃんの障がいがわかってから、悩みもがきながらも一日一日を母となるために心を尽くして過ごしてきたけれど、もう今にも壊れてしまいそうだった。

赴任前の休暇になり夫も九州へと来てくれた。

私の気持ちを全面的に支持し支えてくれる夫と、私の気持ち、信じるものはそれしかなかった。

そして藁にもすがる思いで、眠れぬ夜、天井を見つめながら私は毎晩祈った。

「神様どうか、私をお母さんにしてください。」

それは無事に出産するというより、母としての覚悟を揺るがないものにして欲しいという、心の底からの痛切な願いだった。

何度目かの話し合いの末に、懇願する私の気持ちに押されて、特別に、という感じだったが、結局私たちの願いが聞き入れられて、帝王切開での出産が
決まった。

臨月の大きなお腹を抱え、ほんとうに困難な日々だった。

いよいよ、出産を翌日に控え、計画的な帝王切開のため、入院となった。

どんなに平静にしていようとしても、心の中は不安で今にもパニックになりそうになるのを私は何とか押し殺していた。

私がこの子を守る、という覚悟だけを頼りに、自分をなんとか励ますことしかできない。

手術を執刀してくれる医師はとても評判のいい医師で、もうここまできたのだから、後は安心してまかせればよいはずだった。

けれど、帝王切開前日の診察の中で医師は言ったのだ。

「赤ちゃんの様子はとても深刻ですよ。この状態で本当に帝王切開するんですか?赤ちゃんに脳がないんですよ?」

悩みに悩み抜いても信じてきた決断、心身共にもうギリギリだった私に、医師は本当にあっさりとそんなことを口にした。

私はもうなんと答えていいかもわからなかった、ただ涙が溢れてくる。

私だってわからない。

赤ちゃんがすぐに亡くなるかもしれないのに産もうとすることの
「正しさ」なんて、わからない。

ただ、産みたいだけなのだ。

私はこの大切な我が子を腕に抱きたい。

抱きしめて、我が子の顔を見つめてあげたい。

そう願うのが、そんなに、おかしいことなの??

憤りと悲しさと途方もない不安で、気付けば夜が明けていた。

手術室へと向かう私は、極度の緊張で意識を保っているのがやっとだった。

命を生み出し、すぐに失くす、そんなことが待っているかもしれない。

手術室に入り、下半身麻酔がかかると、切開が始まった。

お腹を開いてから、子宮を開き赤ちゃんが取り出されるまで、数分だと聞いていた。

看護師さんの手をギュッと握りしめながら、その時を待つ。

ほどなくして、

「はぎゃ~、ほぎゃ~」

というとても低くてかすれた声だったけれど、確かに産声が聞こえた。

生きてる!

感動とも言えないようなそんなたった一言の、心の声だけが私の中に響いた。

緊張から意識がもうろうとして、赤ちゃんはすぐに遠くの方へと連れて行かれたことくらいしか覚えていない。

麻酔がとれ、術後の痛みと麻酔の副作用の酷さに苦しんでいた私に、夫が一枚のポラロイド写真を持って病室に入ってきた。

「元気だよ。」と言葉すくなに見せてくれた我が子は

育つことができなかった小さな頭が骨盤に挟まっていたために、
顔全体が押しつぶされたように平たく、はっきりとした顔立ちは見えはしなかった。

でも、一目見て、かわいいという想いが溢れてくる。

愛おしくて、早く抱っこしたくて仕方がない。

翌朝、念願の対面を果たす時がきた。

車いすに乗せてもらいNICUに向かう。

ブルーの面会着をかぶり中に入ると、保育器に入った未熟児の赤ちゃんたちの中に一人だけ白くて大きな赤ちゃんが見えた。

保育器から出してもらい車いすの上で、初めて我が子を抱いた。

暖かい。

かわいい。

愛おしい。

ずっしりとした命の重さ。

すでにぱんぱんに張っていた乳房をふくませると、赤ちゃんは上手に吸い付いて母乳を飲んだ。

胃に入れられた管から確認すると、しっかりとおっぱいを飲むことができていた。

夢にみた、願って止まなかった我が子がこの腕の中にいる。

この幸福感は言葉では言い表すことができない。

ただすべての不安は消え失せ身体中に喜びが駆け抜けた。

私は母になったのだ。

命のもたらす喜びはなんと素晴らしいものだろう。

大脳がないというとっても珍しい障がいを持って、けれどもそんなことを跳ね飛ばす生命力も持って、我が家にもミレニアムベイビーが誕生した。

私はまだ23歳、結婚してからちょうど1年後の6月のことだった。

「はじめまして。優大くん。私がママだよ。生まれてきてくれて、ありがとう。」

 

 

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優大とわたしたちの10年間の物語 目次

About Stories 「物語の前に」

Story1
妻編:「赤ちゃんにノウガナイ?」
夫編:「幸せな若夫婦への突然の報せ」

Story2
妻編:「悲しみと隣りあわせの幸せ」
夫編:「試練、負けるもんか」

Story3
妻編:「この腕に抱きたい」誕生へ
夫編:「産むのはおかしいことですか?」

Story4
妻編:「天からの贈り物」
夫編:「想像できなかった現実」

Story5
妻編:「発作との日々の始まり」
夫編:「いざ広州へ」

Story6
妻編:「中国で重度障がい児を育てる」
夫編:「いよいよ!家族揃っての駐在生活。。」

Story7
妻編:「必死だった日々も。。」
夫編:「妻任せの障がい児子育て」

Story8
妻編:「これでいい。だいじょうぶ。」
夫編:「なかよし学級で教えてもらったこと」

Story9
妻編:「失うことの恐怖。。希望へ」
夫編:「生後5年目、初めての介護育児」

Story 10
妻編:「優大チームの介護子育て」
夫編:「優大5歳、お兄ちゃんになる」

Story 11
妻編:「生きていることの奇跡」
夫編:「8歳の試練」

Story 12
妻編:「当たり前でない日々、10年」
夫編:「命は必ず尽きる、ライフワークは何か?」

Story 13
妻編:「命の最期のしごと 前編」
夫編:「そして、九州へ」

Story 14
妻編:「命の最期のしごと 後編」
夫編:「命日と誕生日、優大の旅立ち」

Story 15
妻編:「すべてが贈り物」
夫編:「3人家族、新しい生活」

Last story
妻編:「生きて!」ママへ、そしてかけがえのないあなたへのメッセージ
夫編:「4人で5人家族、優大学校からの学び」