Story13 夫編「そして、九州へ」

2011年3月11日
東日本大震災が発生し、テレビの映像から大変な事態になったことを感じました。

すぐに妻の携帯に電話をしましたが、回線がつながらない。
マンションにいる優大と保育園にいる次男が心配です。

何度も何度も電話をかけ、マンションの管理室に漸く電話が繋がった時、なんと、偶然にも妻がちょうど管理室の前にいました!

優大を避難させる為に手を貸して欲しいと、管理室に相談しに来ていた所でした。

保育園の次男も無事で、優大も特に何事もない。

それを確認できた時は少し涙がでそうになりました。

余震が来たら避難しなければいけないし、介護もいつも以上に大変になると思い、夕方には早めに帰宅させてもらいました。

電車は止まっていたので、会社のある東京駅付近から千歳烏山のマンションまで5時間ぐらいかけて徒歩で帰宅しました。

特別支援学校のお母さんからのメールでは、首都圏で停電があるという情報が流れていました。

電源がないと優大の介護は困難を極めます。
すぐに判断して、震災翌日の土曜日夕方に九州に新幹線で避難する事を決めました。

九州に着いた後、優大は長旅の疲れか春先の季節の変化の影響か、軽い気管支炎の状態が続きました。

いつものように吸入と吸引を繰り返す事でそれほど大事には至らなかったものの、経管栄養の吸収もよくなく、僕は少し心配しながら単身で東京に戻りました。

会社の方は、震災ダメージから生産や物流をいち早く通常状態に復帰させるという大方針が出され、手がけていた開発テーマは一旦無期延期となりました。

急ぎの仕事が急になくなってしまい、崩れた倉庫の後片付けの手伝い等僕も自分にできる範囲の震災対応をしていました。

震災発生から数日経ったある日、妻から電話があり優大の気管支炎が酷いので九州の病院に入院させると連絡がありました。

東京で暮らしていてもたまにある事だったので、義父義母もいるし、「助けてもらって頑張って対応してね」と伝えました。

その時はそんなに深刻な事態が待ち受けているとは想像もしませんでした。

翌日の血液検査の結果、ヘモグロビンが異常に低下していて、顔色も悪い。

極度の貧血と肺炎で、今までになく悪い状況との知らせが妻からありました。

その後、大学病院に救急車で緊急搬送される事になりました。

電話もできず、ただ悪くなっていく息子を見守るだけの妻はさぞかし不安だったと思います。

待ちわびていた電話が妻から来て、「輸血と人工呼吸器を承諾したよ。多分かなり危ないと思う…」と伝えられました。

妻のその判断を肯定する事と、早く側に行ってあげる事、僕にはそれしかできません。

すぐに上司に許可を取り、タクシーで家に戻り着替えて、その足で羽田空港までタクシーを飛ばしました。

全身が震えてしまい、全身から汗が吹き出し、とても電車に乗って家に戻り、また電車で空港に向かう事はできそうになかったからです。

飛行機の中でも、九州の空港からバスで市内へ向かう間も、全身の震えが止まりませんでした。

「間に合わないかも。この前会ったのが最後だったのかも…」

重いハンディを抱えているので、自分より先に旅立つ事は確実です。

2年前の出来事もあり覚悟はしてるつもりでした。
でも、その瞬間が実際に来ると、動悸と震えが止まりませんでした。

漸く大学病院に到着した時、廊下には真っ青な顔の妻が1人ぽつんとベンチに座っていました。

暫くして、病室から救急部の先生、小児科の先生達がゾロゾロと出てきて、「なんとか一命はとりとめました!」と伝えられました。

慌ててベッドに近寄り「優大!」と声をかけると、パチッと目が開き、キョロキョロしながらパパとママを探していました。

輸血と早期の挿管が奏効し、とにかく彼は戻って来てくれました!

※痛々しい写真ですみません。

「また乗り越えた!優大凄い!」その時はそう思いました。
その後は、いつものように徐々に回復すると思っていました。

その後の血液検査の結果、腎臓の値だけが異常値を示し続けていました。

病名は「急速進行性糸球体腎炎」という聞き慣れない名前でした。

腎臓の機能はみるみる悪化し、入院後二週間ほどで腎不全の状態になりました。

腎不全は人工透析しか治療の術がありません。
そして検査の結果、優大の場合、体質的にその手術もできない事が判りました。

その大学病院は図らずも、優大が生まれた病院でした。
優大の事を知っている看護師さんや、先生達に加え、妻の同級生の医師もいる知り合いが沢山いる病院です。

「10年前に産まれたあの優大くんが帰って来た!」
皆さん病室まで会いに来てくれました。

2時間で亡くなるぐらいの重度障がいの子が、10歳になって戻ってきた。
それ自体がすごい事です。

そんな嬉しい再会もあれど、優大の状態は日に日に深刻度を増してゆきました。

腎臓の専門医から「大変申し上げにくいですが、手の施しようがありません。」と伝えられた時、

「なんとなく大丈夫だと思うんですよ。彼は何度も試練を乗り越えて奇跡を起こしてきました。」
と僕は言い返しました。

先生は本当に申し訳なさそうな悲しい顔をし、かける言葉がない事が辛い、そういう顔をしていました。

ある日、喫茶店で「優大ってさ、健康な腎臓さえあったら元気になるのかな?」と妻が言いました。

すぐに察しがつきました。

「俺ので良かったら一個やるよ!俺超健康だし、腎臓1個ぐらいなくても全然平気。ラグビーも辞めるよ。」

そんな事を言いながら、その日の午後、生体腎移植の可能性を主治医に持ちかけました。

結果はノーでした。

健康な成人の身体を傷つけてまで、救えるかどうか分からない子供の命の為にチャレンジする事は医師として承諾できない。

先生はとても言いにくそうに、でも毅然とした態度で答えてくれました。

それに、優大にはそんな大手術に耐えうる体力も残されていないと思われていたのかもしれません。

万策尽きました…。

あとは2年前と同じように再び奇跡を信じる事、見守る事しか、僕らにできる事はありません。

会社が震災対応中だった事もあり、そして、上司と同僚達の暖かい配慮もあった事で、僕はリモート勤務と有給消化で九州に滞在を続けました。

そこから二週間が経ち、尿量はとても少なくなりました。

血液のバランスが崩れてしまうと心不全の危険性があるそうです。
肺がむくんで細胞が酸素を取り込めなくなると呼吸不全になってしまうそうです。
尿が出なくなるというのは、命の灯が揺れているサインでした。

生命力の強い優大はチョボチョボと尿を出し、身体のなかで上手にバランスを取っているように見えました。

それから更に1週間経った後も、小康状態を保って頑張りました。

僕らは二年前の奇跡がまた起こる事を信じて、とにかくそばに寄り添って、手を握ったり、身体をマッサージしたりして病室で一緒の時間を過ごしました。

期待も落胆もせずに、あるがままの現実、目の前にある状況だけを受け入れるのはとても難しい。

でも、過剰に期待しすぎたり、変に諦めたりせずに、自然体で、彼の命の輝きに寄り添う努力をしていました。

 

 

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