ここのところ自分の中を自分で満たしていくこと、を心がけて過ごしている、と少し前のブログで書きましたが、いまもそんな日々が続いています。
この世界に包まれてつながり合っているわたしたちは、本当には自分一人になることはできません。けれど、十分に自分を知り敬い認めていく過程には、物理的に他から入ってくるものをセーブしながら、自分の内側を少し静かに見つめたり感じたりして見る時間はとても大切。だから意識的にそんな時間をとりたいものです。

波のように繰り返すエネルギーの流入と合流そして離散、新しくできる流れ、またどこかへと向かうわたしたち。少し抽象的な言葉になってしまうけれど、そんなことを感じているいまです。

少し思い出話を。

23歳で母になり最愛の我が子のいのちがいつ消えてもおかしくはないと知らされたとき、もがき苦しんだわたしに少しの許しのようなものを与えてくれた言葉がありました。
「memento mori」死を思いなさい。この言葉の意味はローマ時代から現代に至るまでにその意味や役割を少しずつ変えていると思います。

当時のわたしにとってこの言葉は、だからこそ二度とはないいまを大切に生きる、そして最後はみんな死ぬのだからそれはどうしようもないこと、しがみつくことなく潔くいまを生きよう、そんな風に聞こえました。

我が子の死を思うことは恐ろしく悲しく途方もない空虚を連れてきます。そんな時に思い出す、いまにこうして生きていることを。生きているからもらっているすべての贈り物を。何度も何度もそう自分に言い聞かせ生きていたような気がします。

彼は旅立っていき、わたしは残り、その先の人生を生きています。このわたしのいのちの中にはもらったものしか入っていません。地球からもらい、親からもらい、こどもからもらった、わたしとつながるすべての存在からもらったものでわたしはできている。
太古のいのち、繰り返される誰かの生と死の続きを生きているわたしたち。だから、もし少し生きることに疲れたときは思い浮かべて見る。このいのちの全体性を。そうするとまた静かな愛と許しが起こってくる。

笑っているわたし、その内側でこんなことを思っているわたし。生きていることの不思議とその想像もできないくらいのいのちの全体をわたしは感じて、だからやっぱりしがみつくのをやめて、また歩き出す、心の赴くままに。

あなたに愛と感謝を。