今日は大切な愛してやまない友達の命日です。(人づてなので多分)
1年前の今頃に友達の旅立ちを聞き、数日は何をしても涙が流れてどうしようもなく悲しくて、今でも時々涙とともに話しかけたりします。
私は最愛の我が子を見送り、その優大のお友達の訃報に触れることもとても多い人生です。
人の旅立ちは周りからするといつも突然で、もちろんショックと悲しみと寂しさがわっと湧いてきます。
でも、その死をどう捉えるかはいつでも自分次第です。
我が子が死んだ途端、世界は冷たく意味のない所に感じたけれど、もちろん、世界はいつでも変わらず優しくそこにあってくれました。
友達が亡くなった後、私はタイにいて直接会うことも叶わず、本人からの病気の連絡ももらっていなくて、普段はあまり経験しない怒りの気持ちが湧いてきました。
どうして、何も言わずにいっちゃったの?と何度も話しかけました。
もっと話したかったよ、会ってハグしたかったよ、大好きなひまわり見たいな笑顔が見たかったよ。。大好きだよ。。と。
そうやって私は彼女との絆を結び直すことをしていたのかもしれません。
思い返してみると、優大の時はもっともっと頑張って生きていたから、1年経って初めて、私は怒ることができたのでした。
どうしていっちゃたの?もっとそばにいたかった!と初めて口に出したのが一周忌が過ぎてからでした。
人の死を悼むということ、それは自分と大切な人とのいのちを一つにするようなことかもしれません。
悲しみが癒えてくると、不思議とそばに感じられるようになるからです。
「いない」「できない」ことよりも「いてくれた」「できた」ことに感謝が湧くようになると、身体のない今にもまたその人が戻ってきてくれます。
今もその人との間に愛があること、話しかけることもできること、そう思えると、今までの自分よりも豊かに強くなって生きることもできるのです。
毎日、優大のお仏壇の前で静かに手を合わせると、心の奥で、細胞の一つ一つで愛を感じます。
愛はいのちのすべてに限りなく隅々にまで満ちていることをいつも教えられます。
そして、今目の前にいるいのちには触ることもできる。抱きしめることもできる。
私のいのちがあるから、空を見えげて風を感じ、雨の音を聞くことができる。
愛がカタチになったものがいのち、そう感じるのです。
手を合わせ、彼女の笑顔を想い、つながっているすべてのいのちの存在に、心から、感謝を伝えます。
生きてくれて、出会ってくれて、ありがとう。
生きていること、生きてきたことのすべてに感謝です。