春祭りが終わりひと息つきながらしばしゆっくりと過ごしています。そんな1人の静かな時間の中で、昨年の冬から続いていた日常生活の慌ただしさ、悩んだり葛藤することもあった頭の中の忙しさ、そんなこともひと段落したのだと、ふと気づきました。
そして少し長いスパンで人生を振り返っています。

わたしの人生の大きなテーマの一つに『自由である』ということがあります。

小さい頃からなぜか、わたしがみんなの幸せの責任を果たす、みたいな感覚が強いので、そのためには自分の本音を押し殺したり誤魔化して、その場を平和にさせよう、相手に安心してもらおうと頑張ってしまうのが常でした。

でも同時に、生まれつき色々な感覚が鋭くて、自分の外側で起こること、その場の空気、人の気持ちなどからの影響を強く受けるているので、気分や体調に波やムラが出やすい、だから本当は、自分のペース、自分のタイミングで動きたいのです。

番犬と猫みたいに正反対のように思える、自己矛盾のシーソーをしながら生きてきて、だからいつも本当に疲れてしまうのでした。

生きるのがしんどくて、自由になりたい!と渇望していたからこその人生のテーマ『自由である』でした。

でね、この自己矛盾をなくそうと練習してきたのがこの15年くらいです。優大が生まれて、ありのまま生きているいのちが本当に輝いていて、いてくれるだけで愛をもらう、そんな姿からわたしはそのままの自分を許して大切にすることを教えてもらったからです。

それから15年後のいまのわたしは、お陰様でこれまでで一番、自分に優しく生きています。
もちろん悩んだり立ち止まったりうまくいかないこともありますが、毎日がとても幸せに感じ、自然と深い感謝が湧いてきます。
わたしという人間に、このいのちと、温もりと優しさと、悲しみや辛ささえも、これまで贈られたすべてのおかげで生きてると感じています。

自己矛盾がどうなったか?というと、本当はそれ自体をなくしたかったけれど、それも、わたしが感受性が鋭いから、共感性が強いからこそ、生き辛さがあり、そして同じくらい、わかることや、できることもあると思うようになりました。自分という人間の凸凹も丸ごと認めるほどに、自由になろうともがく気持ちが薄らいで行きました。

傷つく人や悲しむ人を見ているのが苦しいから、それをわたしがなんとかすれば、わたしも悲しくなくなるから自分を犠牲にして助ければいいと思ったけれど、そのみんなの幸せの中に自分を加えることができるようになってきました。
例えば、欲しいものを遠慮せずに買ったり、家族にひどい態度をされたら怒ったり、友達に弱音を吐いたりもできるようになりました。その分、体調がよく、ご機嫌でいる時間がより長くなりました。

自由になりたい、自由でありたいという強い願いは、誰からも指図されないとか、なんの無理もしない、というよりは、ありのままの自分を見せたいというとてもシンプルな欲求でした。
悲しいとき、疲れたときには、正直にそう言いたいし、休みたいし、わかってほしい、それができなくてずっと苦しかったから。
「わたしだって傷つくんだよ、泣きたいんだよ、これ以上頑張れないよ」ただそう言えればよかったんだなぁと。

『自分の好きなように生きていい。いつ始めてもやめてもいい。疲れたら休めばいい。自分の人生を心の羅針盤に従ってどこまでも冒険しよう。楽しんで味わって、生きよう。』

そんな言葉が心の真ん中にほんわりと輝いています。

これを読んでくださったあなたにも、この言葉と心からの感謝と愛を贈ります。