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2020年がくれたこと

2000年に生まれて2011年に亡くなった長男の優大は生まれつき大脳がなかった。

水無脳症という名前の通り、妊娠中に大脳が欠損し変わりに髄液(水)で頭の中が満たされた状態で誕生した。

無事に生まれるかもわからないと言われたけれど、小さな産声を上げて生まれて来てくれて、それでもやっぱり、これから先も、突然に普通の風邪や何かのきっかけでいつ亡くなっても不思議はない、と言われた。

 

今年、新しい風邪が大流行し、重症や亡くなる人のニュースが毎日伝えられる中で、居心地の悪さはもちろんあったけれど、不思議と落ち着いた気持ちでほとんどの時間を過ごすことができた。

その理由として、長男との10年間の日々があったことがとても大きかったのだなといま感じている。

現在ならば、まさに一番、感染重症化リスクの高い人に分類されたであろう彼との生活の中では、やはり風邪からの肺炎での入院は日常茶飯事だった。

 

でも今と大きく違うことには、世界はごく普通に回っていて、様々なウィルスが普通に存在していても、リスクの高い人のために病気を予防しようとか、外出を自粛しようとか、そういう空気が全くなかったこと。

冬にはインフルエンザは毎年大流行して今の新しい風邪よりずっと沢山の人が亡くなっていたわけだけれど。

 

その当時もわたしたちは手洗い消毒をすることや人混みに出掛けないことで、風邪の予防をしていた。

そして同時に、元気な日にはお散歩をして、外食もしたし、温泉旅行にも行った、毎日を慈しんで大切に大切に楽しむことをやめなかった。

いやむしろ、いつ何が起こるかわからないからこそ、日常を宝物のように大事に過ごすようになった。

 

優大が生きている間に、何人のお友達の朝起きたら亡くなっていた、という話を聞いただろう。

そうやって旅立った子どもたちと同じように、ある日突然体調を崩して1ヶ月後に優大も命を終えた。

風邪で死ぬ、はわたしたちにとっては普通の日常だった。

 

今年を振り返ってみると、あの10年余りの日々をもう一度、違うかたちで体験させてもらったような気がしている。

病気が流行すれば心配や不安はもちろんあるし、一番大切なものを失う悲しみや苦しみも人一倍感じて来たけれど、、毎日どこかで新しい命が生まれ、同時に旅立っていくことを紛れもないこの世界の自然と捉えるようになった今のわたしにとって

死は負けじゃないし、すべての終わりでもないし、掛け替えのないこのいのちを全うするためにあるものなんだと感じている。

それならば、ありのまま、いまのままの自分で、波立ちながらも、できるかぎり、いまここにあるいのちを味わい、いまここにあるものに深く感謝し、心の底からの幸せを感じて生きていたいと思うのだ。

 

今年を振り返りながら、ちっとも嫌な年だったと思っていない自分を感じながら、ふとそんなことを考えていた。

困難があるとき、家族や大切なひとと自然と寄り添いあう、なんとか乗り越えようと生きる力も強くなる、そして何より自分にとって大切なことがよく見える。

2020年はわたしにとってそんな年となった。

これからも、愛を感じて、愛を携えて、愛になって生きていこう。

 

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心を守る

心が穏やかで満ち足りているとき、何かを見るとふと愛おしく感じたり、何かを想うと不意に感謝の涙が溢れたり、そんなことが起こる。

反対に心が荒れて不足感があるときには、何かにイライラしてみたり、ちょっとした何かで責められていると感じたり、言葉がキツくなったり、そんな風になることがある。

 

自分がどんな心でいるかで、自分の住んでいる世界さえも変わってしまう。

 

身体には栄養を与えて暖かくしてよく眠ると元気になるように、心を大切に扱うことは自分の幸せのために本当に大事なことだと思う。

これは誰もが知っているようで、実はなかなかできないことかもしれない。

どうしても忘れがちになってしまう心のケア。

 

心のために日常生活でできることはたくさんある。

不快、不安になる情報をなるべく入れないこと。

心地のいい空間に長くいるようにすること。

苦手なこと、我慢しなくてはいけないことを工夫して少し減らしてみること。

そんなことで、心は随分元気を取り戻す。

 

そしたら、さらに、美味しいものを食べたり、美しいと思う景色を見たり、好きな洋服を着たり、、

心が喜ぶことを増やしていくことができる。

 

辛くなったら、元気がなくなったら、ちょっと心の声に耳を傾けてみる。

本音をじっくりと聴いてあげる。

外側で起こることに不安や不満を募らせたり、問題提起するより、ずっとずっと元気に、ご機嫌になれるとてもシンプルな方法。

 

いまいろんな情報がたくさん溢れているように思うことがあるけれど、

わたしたちは警戒するために生きてない。

恐れるために生きてない。

一分一秒でも長生きするために生きてるわけじゃない。

もしそれで幸福がいま感じられるなら話は別だけれど。。

違うもんね。

 

わたしたちは、自分の人生に幸せを感じて、心穏やかに、心躍らせて生きていい。

そのために、自分の心を自分で守り癒そう。

もし隣の人が不安なら、そっとそばに寄り添ったり、話を聴いたりもできる。

穏やかな言葉、優しい目線、笑顔、そんなことがわたしたちには必要だ。

 

わたしから、ここからも、心いっぱいの愛を贈ります。

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これはこれ、わたしはわたし

こんなはずじゃない、こんなのおかしい

こうあるべきだ、普通はこうでしょ

そう思って不快になることってある。

 

でもどんな時も

これはこれ、わたしはわたし、起こっていることがすべて。

 

頭の中であれこれ考えて

すでに起こっている「何か」をコントロールしようとする。

でもできようがない。

だからそこにはエネルギーの歪みとか詰まりが起きてくる。

 

そして、問題意識や不足感、不満から出発したアクションからは安心に辿りつかない。

さらに正すべきこと、恐怖を増やすだけ。

 

もし何かアクションするとしたら

たとえば、何かを改善したいときには、問題に目を向けるのをやめて、まずは目の前のいまを完全受容することはとても大事。

 

それから少しずつ動いてみる。

どうしたいか?を自分でカタチにしていく。

自分の手の届く範囲で

自分の心に正直に

自分の大切な人と一緒に

心地よく楽しくアクションを起こす。

 

何にフォーカスし、何を考えるかで、自分の世界はすべてつくられる。

たとえばTVを見て不安になって色々考えるよりも、一杯の美味しいお茶をいれて、空でも眺めながら味わう方が、ずっと平和でいられる。

そこから世界を見たら少し安心が増えているかもしれない。

 

日々の暮らし、仕事、子育て、その大切な時間の中で

自分がどんな目線で見て、どんな情報を取り入れ、どんな心持ちでそれをするかを選んでいくことができる。

グダグダでも不機嫌でも不安でも、それを問題と見て批判しなければ、これはこれ、わたしはわたし。

 

そしてわたしは感謝とリラックスがたくさんたくさんある毎日を選ぶ。

わたしたちの世界はどんどん優しい場所になっていく。

 

 

 

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癒すから癒えているへ

癒される〜と、わたしも言うし、癒された〜と言われることもある。

癒える、とは、治るということ。

皮膚にできた傷が治って元の状態になるように、心身が元の状態に戻る、元の自分に戻る。

それだけで、とても気分がよくなる。

なぜならわたしたちは、もともと生きているだけで完全な存在なんだもの。

 

どうしてそれを忘れてしまうのだろう?

一生懸命、自分に何かをくっつけようとしたり・・

自分以外の何かになろうと必死になったり・・

そうやって疲れてささくれだった心を何かで癒してもらい、自分に戻っては、また探し始める。

これはまるでゲームだ。目隠しをして自分を探すゲーム。

 

ほんの少し過去、ほんの少し未来にフォーカスして、癒しと探究のゲームをしてきたわたしたちは、新しいドアを開ける。

自分を知ることに命をかけてるのがわたしたちだと気づいたら、次のステージに進むときが訪れる。

わたしはすでに癒されている、わたしを見つけた、つまりわたしはいつでもわたしだ、という感覚とともに。

 

ゲームの続きはやはりゲームなんだろうけど、「いま」を生きるというステージは未知の世界だ。

よりピュアな存在が先生になりヒントをくれるだろう。

それは自然であり、動物であり、子どもたちだろう。

 

原始に帰るように見える営みが、実は進化であることに気づくだろう。

テクノロジーより星の動きを、現代医学よりも自然治癒の力を、教育よりも無垢からの学びを、忘れていたものを思い出していく。

いまここに満ち足りることを思い出していく。

 

既存の枠組みはすでになくなり始めている。

いまにフォーカスする、澄んだ心でことをなす、味わい感じる。

それがわたしたち人間の新たなステージ。

 

 

 

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人生を味わう

人生を味わう、っていうことをいまとても楽しんでいる。

 

口に入れて噛みしめて、その先の吸収と排泄まで、五感を総動員して味わうことをする。

しっかりと見て、香りを吸い込み、食感を楽しみ、響く音を聞いて・・

より深く、よりリアルに、心身にたくさんの生の情報を与える。

それが味わうってことなのかもしれない。

 

赤ちゃんがなんでも口に入れてそれが何者かを知るように、わたしたちは味わうことで人生を知っていく。

マインドフルネスとか、いまここを生きる、という言葉は少し堅苦しい、でも味わうと言い換えれば、本能的に理解するかもしれない。

 

澄んだ空の青さを味わう。

秋の日差しの暖かさを味わう。

我が子の真剣な表情を味わう。

自分の心に満ち満ちてくる幸せを味わう。

 

そうしていると、味わっていることが、人生の意味そのものだと感じる。

なぜなら心からの充足感は、起こることの大小や、成したことの失敗や成功に関わらないということを、波乱万丈な人生を通して教えてもらったから。

 

同時に、過去や未来に対する様々な考えが、いましている体験と感じる心との間に挟まっていると、よく味わうこと自体ができなくなることに気づかされる。

意識のフィルター、心にかけている色眼鏡、延々と沸き続ける思考、そんなものが邪魔をして味わうことができない。

 

すると感動も充足感も薄らいでしまう。何かが足りないという焦燥感が湧いてくる。

本当はいまこの瞬間に「すべてがある」というのに。

 

ただ自分の中がシンプルになりさえすれば、いつでも鮮やかで瑞々しく感動に満ちた体験ができるんだなぁと思い知る毎日。

たとえそれが、空を見る、というそんな些細なことでさえも。

味わうことの幸せをまた味わい、笑、心がどんどん満たされていく。