子どもの頃に、何かをしてもらったらお礼をきちんということの大事さを教わった。
当時はその強制的な感謝に抵抗があって、ありがとう、が堅苦しくて面倒臭いようなそんな重い言葉に感じられた。
長男の優大が生まれ親になり、この感謝の言葉は突然とても鮮やかに輝く言葉になった。
心の底から湧き上がってくる、ありがとう、を経験したから。
それは、幸福感とセットでやってきた。
穏やかな昼下がりに優大を抱っこしながらふとその顔を見たとき、身体中に溢れてくる幸福感。
そんな風に、大袈裟でなくとも心から深く満たされたとき、自然と涙がこぼれて「ありがとう」と呟く。
相手に差し出す言葉としてではなくて、今この瞬間を生きていることの恩恵を表す言葉として。
わたしの場合は、我が子の命の灯火がいつ消えてもおかしくないからこそ、与えられた賜物だった。
みんな様々なタイミングで、真に心の言葉としての「ありがとう」を知るのだろう。
このありがとうを知ってから、美しい空を見上げたときや、大切な人が存在してくれることや、ストレッチして気持ちよく伸びたときや、あらゆる瞬間に感謝が湧くようになった。
そして、この感謝は、落ち込んだときや、絶望しそうなときには我に帰らせてくれるとても大切なツールにもなることを知った。
例えば今回の自粛期間中も、感謝することを見つければ、不満はスッと落ち着くし、不安も和らいだ。
感謝は自分のためにするといい、とわたしは思う。
もちろんその気持ちを誰かや何かに伝えることは、感謝が倍になるからとてもいい。
でも無理して感謝しなくちゃ、なんてことはない。
まず感じること。
ここにあるものや、ここにある感情や、ここにあるたった一つのいのちや。。自分という存在だからこそ生まれるもの達を。
湧き上がってくる、ありがたいなぁ、感謝だなぁ、の「ありがとう」ほど愛に溢れた言葉はない。
それはそのまま自分への愛となり、ぬくもりの波紋を広げていく。
長男が亡くなるときもまさに、最後の最後まで絶望せずに、彼の旅立ちをありがとうの言葉で見送った。
あのとき病室に満ちた不思議な愛のエネルギーを痛いほど感じていた。
掛け替えのない毎日という「ありがとう」のレッスンを受けていたかのような10年、そしてあれからの10年の日々にも、それはずっと続いている。
母になってもうすぐ20年。
もらった感謝の力は、これからもわたしをずっと支え続けてくれるだろう。
今日も手を合わせ、深い深いありがとう、を感じている。