わたしは本当に小さい頃から、人は何のために生まれてくるのか?という問いに対峙し続けてきた気がする。
生まれたら必ず死ぬことだけがわかっている、その人生において、何を目的にして生きればいいのか、ずっと疑問だった。
無価値感、無気力の中に入ってしまうと、いつでもすぐに全部終わらせたくなった。。
感受性が豊かというと肯定的、でも実際はその裏側を、激しく波立つ感情や感覚の波間で溺れそうになりながら必死で泳いでるみたいな人生の前半。
それも白鳥みたいに、水面下の必死さを見せない穏やかさをたたえながら、笑。
泣き喚いて怒って生きるのは、わたしには逆に難しかったんだろうね。
生きるって修行じゃないんだ!って思えたのは、長男を授かってから。
実際に身体を脱いで一つの人生を卒業するまでそばにいさせてもらって、役に立つとか、成功するとか、社会に何かを遺すとか、そんなことはどうでもいいんだって、教えてくれたから。
生きていることの輝きを、純粋ないのちの輝きを見せてくれたから。
そしてそれが隅々まで愛で埋め尽くされていることを知ることができたから。
生きてるって素晴らしい。
自分のいのちと出会えることも、ひとのいのちと出会えるることも奇跡だ。
感受性が豊か、をやっと受け入れることができて、自分のことを好きになることができて、「いま」という、いのちを味わって、感動して、感謝して生きている。
未来のわたしからも、愛がいっぱい送られていることだろう。
理由もなくワクワクする未来への予感はそのせいなのかもね。