自分がどう生きたいか?なんで生きてるのか?
そう、四六時中、自分の内側だけにきいていられたら、心はいつでも全てを包んでいながら平安でいられるのかもしれない。
でもそれが難しいのが人間なんだろうな、笑。
どうしてって、私たちには自分の外側を情報収集する能力も備わっているから。
どんなにメディアや人間関係を限定的にしたとしても、常に五感で情報収集している。
余談だけど、私みたいに生き辛い人は、多分、情報収集しすぎるタイプの人なんじゃないかな。
自分と違う存在に対して、興味や疑問や違和感を持つのは本能とも言えるものなのだろう。
なぜなら他者を通してしか、自分を知ることができないから。
自分と同じ人間しかこの世にいなかったら、自分が何者かなんて永遠にわかることもできないもんね。
そして、その感じた違和感は度々、自分の存在を脅かすものに感じられたりする。
ここがミソだと思う。宇宙の仕掛けなんだろうか?
小さい子供が、ごくごく自然に、誰かと比べてどっちが可愛いか、どっちが愛されているか、と親に聞いてくるんだから、ほんとにもうデフォルトだと思う。
で、その不快感を解消するために、正誤や善悪や美醜や勝ち負けや、いろんな色メガネで世界を見ようとする。
でも結局最後にどうしてもやりたいことは、自分の見ている世界と自分自身を知って、やっぱりこれで、そのままの自分でよかったと思うこと。
全面的な肯定。
そして、自分が思っている自分なんかは、ほんの足の小指の先っぽくらいで、その全体性は、自分が見てまさに否定したり戦ったりしているその全てを含んだこの世界とイコールだって気づくこと。
色メガネを取ったら、クリアにありのまま見えるんだね。あ、そうだ、もともとメガネかけてなかったし、という気づき。
もしそれに気づいたなら、自分と違うものを否定したり戦うことにエネルギーを費やすのは、本当に徒労だと感じるだろう。
一つ言っておくと、人を否定してはいけないという観念さえもまた、ただのメガネでしかなく、そう思わないといけない理由などもない。
ただただ、「気づく」だけなのだ。
何かを完全にコントロールしようとしても、絶対にできないこの世界では、まず自分が自分自身とこの世界を認めきってしまうことからしか、心の平安は始まらない。
どこに住もうとも、何をしようとも、例えば最高の平安な環境を整えて一生座禅を組んだとしても、真の心の平安が訪れることはない。
そうなるともう、座禅でも麻雀でもなんでもいい「好きなことをして生きましょう!」人間界のキャッチフレーズはこれだけなんじゃないかな、笑。
自分を知って自分の好きなことを知って、心ゆくまで体験しよう。
そして自分を好きでいて、この世界の全部を好きになれた頃、世界は天国へと変化する。
その時、求めてた平安が訪れるのかもしれないし、平安なんて求めてなかったぜって気づくのかもしれないし、笑。
天国と色メガネで見る世界を行ったり来たりしてる私だからこそ、こうしてメッセージを発信しようと思うのだろう。
きっとそれが私の仕事なのかな。
今思うのは、いのちのある天国で何をしようかなってこと。
純粋に好きなことだけして生きる世界はどんなだろう。
もしかして、今とそう変わらないのかもしれない。
だって、好きなことのために、相変わらず泣いたり怒ったり、悩んだりするだろうからね、、笑。
でも一つ確実に変わっていくだろうと思うのは、情報収集自体がとっても便利なツールになっていくってこと。
自分が思う存分自分のいのちを体験するためには、それが本当に役に立つ。
生き辛くて、死にたくなっちゃう人も、情報収集、つまり感じる力が自分の特技だって知った頃には、俄然、生き生きし出しちゃうと思う。
軽やかで、でもみっちりした愛の世界を生き始めている今。
明日には濃いめの色メガネかけてるかもしれないけど、笑。
すべてに愛を込めて。