自分にとって想像もしていなかったような出来事が起こったり、堪え難い辛さを感じているときには、まさかそれが恩恵だなんて思いもしないし、神様を恨む気持ちでいっぱいになったりもする。
実際に私も何度もそうなったから、その苦しさ、誰にも助けてもらえないような孤独感と絶望は本当に恐ろしいものだと知っている。
でもそんな時間を何度も潜ってきたからこそ、今更に深く感じることがあって。
やっぱり、どんな出来事も必ず自分へのギフトであるってこと。
何が起きても人生の旅は順調に進んでるってこと。
でも現実を生きている今の自分には大抵、自分がどこに辿り着くのかはわからない。
辛い状況で悪いことが起こっているだけだと思っている時には、余計に先なんて見えないし。
もしどうにかその苦しさから抜け出したとしても、自分にとって「安定している時」「成功した時」なんかの「いい時間」を失くさないように、本当は安定している時でさえ、どこかで怯えながら暮らすだろう。
結局、そんなパターンの中で生きている時って、努力とは裏腹に、「いい時」を堪能して心から幸せを感じている時間って案外短いのかもしれない。
そしてまさに今の状況みたいに、また自分ではどうしようも出来ないようなことがいつか必ず訪れる。
だから、もし辛い時、不安に押しつぶされてしまいそうな時、そんな出来事を「悪い」と決めていることの方を少し疑ってみるのがすごく大事だと思うんだ。
「もしすべてがギフトだとしたら??」
自分が求めていた幸せや安定とはかけ離れてしまったその時間が、わたしたちが今まで描いていた幸せの可能性をぐんとあげているのかもしれない。
今体験していることで、今まで気づけなかった幸せを照らせるかもしれない。
本当に自分が怖かったことは何だろう?って考えてみるチャンスをもらって、自分が望む方へと進んでいく道標を得たのかもしれない。
そんな風に。
そんなことを全部ひっくるめたギフトをもらい続けているわたしたちはみんな、真の意味では豊かになるしかないって、わたしはそう思う。
ポジティブとかネガティブとかそう言うことじゃない。発想の転換とかでもない。難しいことは何もない。
強くなる必要もないし、何も自分を変える必要もない。
自分に起こる体験に「いい」「悪い」をつけてることに気づくだけでいい。
いい悪いという正解を探し続けなくていいってこと。
現実には繰り返しいろんな出来事が起こってくるけど、もし、いい、悪い、のジャッジメントの色メガネを外してみれば、本当にただただ完璧に織り成されたカラフルな世界が見えてくる。
わたしたちが体験していることはすべてギフトだって感じたなら、深い感謝とともに、無くしようのない愛の中にあると気づく。
だから大丈夫。
大丈夫じゃなくても大丈夫。
辛い時は、とりあえず、深呼吸して空を見上げるのもいい。
お茶飲んでぼーっとしてみるのもいい。
少し想像してみる、空から見たら今のわたしはどんな風?
今のわたしは何を体験しているんだろう、どんな新しいことを知ろうとしているんだろう?
そうして少し深刻さから抜けたなら、自分の中に前には知らなかった感情や体験が加わっていることに気づくかもしれない。
少し前よりも、深く自分自身と関わって向き合っているこの時間に、自分が得たことに気づくかもしれない。
もしすべてがギフトだとしたら?