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約束

 

 

あなたが生まれた日がまた巡ってきたね。

命がすぐに尽きると言われて、それでもどうしてもあなたに会いたかった。

私にとってあなたをこの腕に抱けること、乳をやり、オムツを替え、眠りにつくまで優しく揺すって抱き続けること、そんなすべてが、幸福そのものだった。

あなたのために何かができることが、嬉しくて、、

母にならせてもらって、母でいさせてもらった10年間、私はずっと「あなたを愛する」という最高の幸せをもらい続けた。

それが、何にもかえがたいギフトだったと、今すごく感じているよ。

あなたに触れることができない、何もしてあげることができない毎日を生きることは、本当に苦しくて寂しくて、、

でも、あなたが肉体から離れることを決めて旅だったとき、私はそれがあなたと私の約束だったと知った。

だから、あなたを引き止める気持ちには蓋をして、もらったバトンを握りしめて、あなたがいない世界を懸命に生きてきた。

あなたと出会った日から19年の時が過ぎ、あなたの姿が見えない日々にも、私はずっとあなたからのギフトを受け取り続けている。

そして今日、19回目の誕生日に、また新しい贈り物をもらったよ。

あなたと共に生きている、一人で頑張って戦わなくてもいい、どんな自分も許して、喜びに溢れて生きていい。

あなたに注いだ分の愛を向ける他の何かを探さなくていい、その愛をまず自分に向けよう。

私のいのちの中にあなたがいるから。

あなたと私の約束。

生まれてきてくれて、出会ってくれて、ありがとう。

今日も、ありがとう。ありがとう。

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やめてみる、休んでみる

 

 

昨晩の凄まじい雷雨から晴天の今日も、まだ強い風が吹き付けている鎌倉。

デッキに出て、空を眺めていると、風の強さ、雲の動き、空の色、毎舜変わり続けるその様子に心奪われる。

遠くに見える海の表情、寄せる波も、刻々と変わり続ける。

 

人もまた同じなんだといつも感じる。

 

変わらないのは、空が空であるってこと、私が私であるってことだけ。

 

そう考えるとさ、私たちが毎日続けていることや、もうずっと続けていることがあるとしたら、それはいつかどこかで無理したり違和感がでたりしているのが当たり前なんだろうなって。

 

だってこんなにも私たち自身が変わり続けているのに、同じことを同じようになんてやり続けられるわけがない。

 

でもそれが、8割がたは無理なくやっていることだとしたら、残りの2割をやめようとはなかなか思わなかったりする。

そんで、決めたことを続けないことが罪悪だという意識がある場合には、もし8割がたが無理してやっていても、最初の意気込みのまま続けてしまうことだってある。

 

つまりさ、私たち人間は頭脳があるばっかりに、自分が何をしたくて何をしたくないか、を本能として感じる力が弱まってしまうことがあるのかもしれない。

その結果、何が喜びで何が苦痛かも、わからなくなり、自分が何を無理しているのかにも気付けない。

 

だから、もし疲れて気力が湧かないとか、生きてても楽しくないとか、何だかんだ前のようには色々うまく行かなくったなぁとか、そんな時には、たまに、何かをやめてみる、休んでみること、って大切なような気がする。

それができなくて、強制終了になりがちな私としては、身に沁みてそう感じている。

 

私の場合は、長男の優大が亡くなってから、自分と真剣に向き合うようになって、時々、いろんなことをやめてみている。

 

例えば、洗い物を残さず、シンクを磨いてからでないと寝れなかったのだけど、一回でもそれをやめてみると、自分の完璧主義は誰のためだったの?という疑問とともに、疲れているときには無理してやらないことを選べるようになった。

上の二人では必ず行ってたけど、体調悪い中でも無理して末っ子の授業参観に行くことをやめてみたら、思ったよりも娘からのブーイングは少なかった、笑、とかもある。

この辺りは、自分が良き妻、良き母であるための変なプライドから自分を解放することで、随分楽になったことかな。

 

他にも人が大好きなのになぜか疲れてしまうことが多くなってたとき、人と会うってこともお休みしてみたら、自分が自分でいられないことがただ疲れる原因だって気付いたり。

大切な生涯の仕事であるシャンティハウスをやめてみて、わかったことも沢山あった。

 

やめてみると、本当は何がしたくて、何がしたくなく、そして、どうしてしたいのか、わかってくることがある。

反対に、わからなくなったままに、違和感があることを続けていると、そのつけは意外なほど大きくなって帰ってくる気がする。

不調や、病気や、アクシデントや、いろんな形で、わかりやすいサインとなって帰ってくる。

それあなたの仕事じゃありませんよ!その生き方あなたに向いてませんよ!そのまま行くと死にますよ!みたいな感じで、わからせてくれる。ご親切にも、笑。

 

人生は修行じゃないんだ。

私たちはみんな、この人生を楽しむために生まれてきている。

だからと言って、楽なことだけが起こるなんてことはまあないわけで、耐えてるうちに、修行なんじゃないかって錯覚してきたりもするしね。

だから、一旦やめてみるのが役に立つ。

 

そしてもし、やめようとしてないのに、何かを中断しなくちゃいけなくなったり、休むことを強制されるような状況になった場合には、それはとてもわかりやすいサインだって気付けばいいだけ。

私はどうしてこれをやっているんだっけ?私の喜びってなんだっけ?私はどう生きたいんだ?

って自分と真剣に向き合う時がきたサイン。

ある意味、次のステージに上がる時の準備みたいなこと。

 

うまく行かない渦中にいる時には、もう本当に苦しいんだけど、ほんの5分でもいいから空を見上げて、ちょっとだけ力を抜いて深呼吸するのもまた、「やめてみる」ことの一つ。

そして自分に聞いてあげよう。

本当はどう生きたい?私が人生の主人公だよ、と。

だんだん、思い出してくるから、焦らず、一歩一歩。

 

 

 

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一人に一つの人生劇場

 

昨日ね、久しぶりに荒れて、子ども達に八つ当たりして、なんとも言えない気持ちでベッドに入った。

うちの子達はとても素直で、子どもらしい子どもというか、親に対して気遣いとかないタイプ、笑。

不安や恐怖でコントロールするのが一番簡単だけど、絶対に絶対にそれはやりたくないことで。

だから、私がそうあってほしいと望んで、そうなってもいいように接しているわけだけど、普通にイラっとしたり、すごく腹がたつこともある。

 

次男に対しては、理解不能な行動が多すぎるから昔は随分悩んだし、今でも、何回言っても直らない様々なことには腹がたつ。

昨日は、テスト前期間を=部活のない自由期間かのようにのびのび過ごす彼にイライラ、笑。

それでもいいし、なんでもいいとは頭で思い、しかし、後々彼が実力が出せなかった。。みたいに落ち込むことを想像しては、せめてできるだけのことはしておけよ!って言わずにいられない。

暴力や威圧ではないにしろ、言い聞かせることだって、母という権威を使った完全なるコントロールだとわかりながらも、言わずにいられない、笑。

でも、言った後、すごく嫌な気分になるんだよ。

親は子どもの人生全部の信頼だけでいいんだってわかってるのになぁ。

私がそれ以外の生き方をしたことないだけで、どんな道だって彼の道だもん。そう後悔する。

私が怖いだけ、彼が大切だからそれを手放せないだけ、でもそういう自分も愛そうと思ってはよしよしと自分を抱きしめる。

 

 

末っ子の娘に対してはもっとずっとシンプルで、長男から12歳も離れて生まれてきてくれて、もう孫のように可愛くてね、どこまで自由に育ってくれるかが楽しみでしかない。

でも、とにかく勝気で自分の思い通りに全て進めたいタイプの彼女は、なかなか手強い時もある。パパに激似、苦笑。

だから、私でも手を焼くくらい、感情爆発しちゃうときには、こっちも同じくらいの威力で言い返す。

そんな時に、いつも自分がすごく冷たい顔になるのがわかる。

どうしてそんなに自由に表現するの?っていう嫉妬が顔を出す。

私はできなかった。私はどんなに悲しくても声に出さなかった。なんであなたはそれをできるの?って小さい私が言ってる。

そしてまた、自分をよしよし、と抱きしめる。

 

 

子育てしてるとさ、自分の過去をなぞるような瞬間が沢山ある。

自分が育ち直しているような時間だなと思う。

自分の中にある解放されてない部分、癒されてない部分にスポットを当ててくれる。

 

 

母としてあるべき姿を模索していた時代には随分悩んだけど、今の悩みといえば、自分が自分の人生にどう向き合うか?だけ。

自分の人生劇場には、自分という絶対的な主役がいて、時に妻や母や友や子どもや様々な役の私が入れ替わり現れる。

演じる自分自身が変わるのと同時に、当然、母役としての私も自動的に変わっていく。

人生劇場を生きてる私たちにとって、どんな経験も役者としての幅を広げてくれてるわけだよね、笑。

 

人生は軽やかで、同時にとてつもなく重く、どうにでもなるもので、同時にどうにもならないものでもある。

陰陽の世界を生きている私たちは、自分がどっち側で生きるかを選んでいるだけ。

そして大抵は陰と陽を行ったり来たりしながら、次第にその全体性を知っていく。

 

母という役割は私にとって、ギフトでしかない、そして同時に足枷でもある。

どんなにポジティブになろうとも、悟りを開こうとも、人である限り陰陽から逃れることはない。

平安のストーリーを演じるか、苦悩のストーリーを演じるかもいつでも選んでいる。

最後にはどんな風に私はすべての役を知り尽くし、そして降りるのかな。

 

自分でしか演じられない一人に一つの人生劇場。

あの時のあの出会い、あの涙、あの幸福、全部、全部を経験できたこと、役者冥利に尽きます、、なんてね、笑。

でも本当に、ギフトだなって、奇跡だなって思う。

次にどんな幕が上がる?やっぱりまだまだ舞台から降りられないね。

 

 

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今ここの望みを叶える、ある日の私

 

代休の子ども達が朝からワーワーしていた月曜日。

私は、一人になりたい、自由に動きたい、という欲求を押し殺していたために、すごく機嫌が悪かったみたいで、でもなかなかその理由に気付けなかった。

だから、自分の心に、何が無理していることなのか?我慢していることなのか?って聞いて、素直にしたくないことをしないこと、を自分に許してみた。

送り迎えが必要な習い事をキャンセルし、文句言われながらも外出の予定も変更し、遊んでー!の要求を百万回拒否し、笑、これ以上自分が不機嫌にならないようにしてみる。

そして大雨の中、一人で車に乗り近所のスーパーに行っただけで、すごく楽になって、目から鱗な感じで、笑。

このままお気に入りのお店まで車を走らせたら最高だな、と妄想するだけでも、心がふわっと開けて、行かなくても気分が全然違うから不思議なものだよね。

 

そうやって、どうやったら自分の人生の主役である大切なこのわたしちゃん、笑、をご機嫌にできるかを考えることが、今一番私に必要なこと。

母親なら当然こうする、という誰かが決めた常識をかなぐり捨てて、私ってダメな親だね、と思いつつも勇気を持ってそうする。

すると自分を取り戻して機嫌がよくなった母は、喜んでご飯を作り、子ども達との遊びも楽しく付き合うこともできて。

 

こんな些細なこと、(でも自分にとっては勇気のいること)、を重ねて行くことが、自分の心をまっすぐに生きることに繋がっているんだろうなって。

今ここの望みを叶えることは、地道な作業だけど、いつからでもできる幸せへの最短ルートだと思う。

なんというか、億万長者になる!を今叶えることはできないけど、億万長者ならこんなことする!を妄想することから始めてみるとか、笑、何の制約もなく自由に生きたいなら、今自由時間を5分でもとってみるとかね。

だってそれをしている間、すごく楽しいはずだし、今の自分が一番気分が良くなる方法だと思うから。

 

そんで一番大切なのは、自分の望みを知るために、自分と対話し続けるってことだよね。

でも実はそれがとても難しいってことは、よくよく知っている。

だからこそ、愛をもって、優しさをもって、諦めずに自分に向き合おう。

今もきっとどこかでそうやって向き合ってるあなたにも、いっぱいの愛を贈ります♡ありがとう。