時々、言葉を綴ることも億劫になって、文章を書けなくなることがある。好きなのにできなくなる。
何事においても、「意味」を求めるクセがついている私や私のような大人の人にとっては、意味もなく、つまりは生産性や正解のない行動をすることは、なかなか難しいのかもしれない。
「好きだから、したいから、する。」
それが難しいのだから、つくづくこんがらがってしまっている。。
クライアントさんとお話ししていても、したいことがわからない、という方は多い。
ありのままの欲求を押さえ込んで、社会や親の言う正解になるように動いたり、日常のやらなければいけないことに翻弄されていると、自分が何が好きで何がしたいのかがわからなくなってしまうのかもしれない。
でも、この「好き」「好きだからしたい」という純粋な欲求はその人そのものをとてもよく表現している。
自己紹介をする時、私たちはまず、何が好きか?を尋ねたり話したりすることが多いのは、その人の「好き」が一番シンプルなその人らしさだから。
私はこういう人間です、とはなかなか説明できなくても、何が好きです、が言えれば、人と繋がることもできる。
今思いがけず、一人で留守番という夏休みをもらっている私は、ほぼほぼソファの上でゴロゴロしている、笑。ポコポコのキャラと仲良し、笑。
1日目はほとんど何も食べず、動かず、お風呂をためて入ることくらいしかしなかった。
2日目は、簡単な掃除だけして、雨が上がって涼しくなった夕方から、そろそろと買い物に行き、大好きなお店でサラダと美味しい紅茶を頂き、大好きなスーパーでフルーツやお茶や甘い物をお買い物して帰宅。
3日目は、シーツやら色々洗濯して、少しPCに向かう。昨日買っておいた美味しいものをちょこっと食べてはゴロゴロ。早めにお風呂に入って、夕暮れ前からずっと空を眺めては美しさに心が緩んでいく。
4日目の今日はどんな日になるのだろう。
私のやりたいことは、そんなに多くはないらしい。
疲れが抜けていくと、心の絡まりが解けて、自然と心の視界が開けていく。
ちゃんとしなくちゃ、という気持ちだけで朝起きてご飯を食べていた私にとって1日の始まりは大抵苦痛だった。
それは子供の頃からそうで、そしてそんな日々の一番の楽しみは祖母の家での夏休みだったなぁとしみじみ思い出す。
やらなければいけないことのない朝は、目が覚めて、1日が始まることに抵抗する必要もない。
母になって、子どもがいつ死んでしまうかもしれない毎日に、私のちゃんとしなくちゃはますます過剰に増え続けていった。
でも、そもそもちゃんとしてないのが私だったんだなぁと思い出している。
やりたくないことをすると疲れるのは当たり前だったよね。それなのに、疲れてしまうことを責めて、そんな自分が嫌いだった。ごめんね。。
人生には、魂の求めている、つまりは心が歓喜するような、そんなことを思い出すために歩いてきた道がある。
好きじゃないことをして苦しみ、やりたくもないことをして苦労し、疲弊し、それでも希望を捨てないで生きている。
だからこそ、いつかちゃんと「好き」を思い出せるんだ。
そして大人になって「好き」を思い出したら、その奥にある本当の心の声に気付くことができる。
〜だから、好きなんだ。〜だからやりたいんだ。そうだったんだ、私はだからこの人生を歩んできたんだねって。
〜は人生の目的。
みんな、みんな、旅の目的がちゃんとある。
そして、いつでも「好き」の羅針盤が、心が喜ぶような瑞々しく色鮮やかな瞬間へと導いてくれる。
今この瞬間の自分の「好き」ほど確かな、人生の旅の目印はないのだと思う。
無心になって没頭できることは何?
ワクワクすることは何?
やめられない〜ってことは何?
心地よくて心底ホッとすることは何?
好きなこと、好きなもの、好きな場所、好きな時間は?
意味や正解を求めて疲れちゃうときには、自分に訊いてあげる。
頭の中がパンパンで、もしくは心がガチガチで、答えが出せないときには、まずはただ一人になって休める時間だけを与えてあげる。
そして小さいことからでもいい、好きなことをさせてあげる。
絵を描いたり、字を書いたり、料理したり、パズルしたり、ヨガしたり、散歩したり、お昼寝したり、お笑い観たり、映画でもいい、何でもいい、一人でラーメン食べたりビール飲んだり、何でもいい。
心が喜んでるなぁと感じる時間を与えてあげる。
非生産的な、誰からのOKもいらないようなことを、自分にさせてあげる。
ゆっくりでいいから、「好き」を、「〜だから好き」、を思い出してみよう。
幸せはいつだってとてもシンプルだ。これでいいんですか?ってくらいに。
大人の夏休みも終わりに近付いて、いまの私が望む幸せは、、楽しい気分で目覚める毎日、それだけでもう十分だな、と思っている。
さて、もうすぐ愛おしい人たちが帰ってくる。ありのままの自分であることのプロから学ぶとしよう、笑。